役尊神祠
平成8年3月再建。修験道の開祖であり、今宮坊の開基である「役小角大神」(役尊神)を祀る祠で、「行者堂」とも呼称されている この堂の脇に当時の宮司塩谷太刀雄の記した由緒書が立てられている。その内容を以下に記す。
役尊神祠(行者堂)再建にあたって 社記によれば、当社の前身は長岳山金剛寺、大宮山満光寺といい ここに古来より武甲山の伏流水が湧き出る池があり、大宝年間(701~704)役行者によって「八大龍王」が祀られて八大宮と称しました。役行者は舒明6年(634)葛城山の麓、茅原の里(現奈良県御所市)に出雲の加茂氏と葛城氏の娘渡都岐(ととき)の間に生まれ、仙道、道教、古神道、仏教を学びました。しかしこれに満足せず「人間完成の探求と実践こそ神仏の境地到達の道であり、国家平安、万民幸福の根本である」と悟り、葛城山、金峯山へ入り難行苦行され、遂に法起、龍樹菩薩から乱れた世を救う秘法を授かりました。当時、人心は荒れ、凡教頽廃して末世の様相であることを嘆いた役小角は、悪魔(悪病や災厄、人間の欲望や煩悩)を降伏させることのできる御本尊を求めて更に修行し、金峯山で忿怒の相の金剛蔵王権現を祈り出して、吉野の金峯山寺山下の蔵王堂にまつりました。 羽黒、立山、浅間山等を開き、道場を建てること二百余カ所、厳しい自然の中に御仏の教えを求めて、強固な精神力と高邁な人格を身につけられた姿は、何人をも魅了してやまなかったと伝えられています。いつも弱者の側に立ち、治水工事、病気治療、鉱山開発、情報収集などを指導し「神か仏か、仙人か」と人々から仰がれました。一説に、壬申の乱(672)では、天武天皇を勝利に導き、のち天皇より重く用いられました。この前後、今宮神社、武甲山、三峰、慈光寺に飛来し、当処に「八大龍王」を祀り「秩父霊場発祥の地」といたしました。凡そ800年後の天文5年(1536)秩父札所が三十四ヶ寺整えられました。その後「江戸出開帳」も成功し、巡礼路も拓かれて、秩父は日本有数の霊場に発展して、役行者は秩父を開拓した恩人として幕末まで人々から尊敬されました。 文武3年(699)弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に謀られて、無実の罪により伊豆大島に流されましたが、再び文武天皇に迎えられ「国人の心の親」となられ、寛政11年(1799)の千百年遠忌には、朝廷(光格天皇)から「神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)」の称号を賜りました。 役行者が当社に祀った八大龍王は、水の神、仏法を守る神であり観音菩薩から慈悲の心(宝珠=玉)をいただいた神様です。4月4日の秩父神社の御田植祭は、今宮神社の霊水をいただきに来られることから始まります。このように、役行者と八大龍王は、秩父霊場や秩父の人々の生活に深く係られて、今日の秩父発展の礎となられました。 明治からの百余年は、多くの人々に文化生活を享受させてはくれましたが、それは、物質文明競争の暴走で、自然破壊を招き、人々の心も又、荒ませてしまいました。これからは、もっと「水」を愛し「真理」を学んで、自然と人類が共存共栄できる世の中になることを心から祈念し「役尊神祠」(行者堂)の再建をいたしました。
平成8年3月 今宮神社宮司(今宮坊二十世)
塩谷太刀雄 敬白
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